泣き虫の備忘録

等身大の日常をつづります

発信者にはなれない話

溜まってた思考を書きなぐっているので読みづらいかもです。

インターネットが普及した現在、誰でも情報を受信・発信できる環境ができた。一般人と呼ばれる人の中には、実は顔出しをしていないインフルエンサーで…といった話も十分にある。なんなら隣の席の先輩が裏では大物ユーチューバーという可能性もある。片手に収まるスマホ一つで世界中の人の注目を集められる。そんな時代なのだ。

そんな中、私は気を付けたいことがある。だから発信者にはなれない。

それは、「自分の感じたこと、感性を大切にしたい」ということだ。いや、発信者の中にはちゃんと自身の感性を持っている人がごまんといるのはわかっている。でも、私の場合、目的が濁るのだ。

例えば、最近話題のケーキ屋さんに行くとしよう。購入した後、わたしはすぐに食べたい。なぜならケーキがすごくおいしそうな見栄えをしているからだ。また、味がものすごく気になるからだ。食べたとしよう。それはもうすごく幸せだ。一人でニチャニチャと虚空に微笑み、一口一口をかみしめるのだ。感じたことは全て私の純度100%の感情だし、そこには一点の曇りもない。

では、これを友人とインスタに載せるために行くとしよう。写真映えのためにドリンクも頼んで、自然光の差し込む席を選び、友人とケーキのツーショットを撮影なんかして、やっと食べる。それはそれでおいしいだろう。雑談に花を咲かせ、ケーキを食べる。友人はおいしそうに食べているだろうか。私はおいしそうに食べられているだろうか。混雑してきたからそろそろ帰りたいが、友人はそれでもいいだろうか。撮影した写真はいいねがつくだろうか。などなど考えることが増えて、その結果ケーキの美味しさに割く私の思考や感性が削られているような気がしてならないのだ。帰ったら写真を加工して、編集して…などの作業を考えると、使命感というか仕事というか義務感というものに縛られている気さえするのだ。果たして、ケーキは本当においしかったのか?となる。

 

私は意思が弱い。他人と一緒にいるとき、「今日は君の好きなことをしよう」と言われても、相手のことを色々と考えてしまう。その人は疲れてないだろうか?疲れてそうなら家でできることがいいかな。その人は確かラーメンが好きだったから、お昼はラーメンに誘おうかな、といった具合に。と、いうのも最近気づいたのだが、私は共感力が人よりちょっと高いのだと思う。他人が気まずそうにしていると私も気まずくなってくるし、つまらなそうにしていると楽しくなくなる。だから相手に楽しんでもらえると私も楽しいのだ。そんなこんなで他人といると協調性に全振りしてしまうため、主体性がないという欠点も生まれる。

だから一人で何でもしていいよという状況になったとき、やっと自由に選択できるのだ。

 

持論だが、スマホで星空がうまく映らなくてよかった。(最近のスマホはそうもいかないが)

綺麗だと感じたものを、自分の中に閉じ込めておきたい私にとっては、なんだか独り占めできた気がしてうれしい。その一瞬を、純粋に、大切にできた気がする。一方で誰かに共有したいという気持ちももちろんある。そういうときツイッターで「星めちゃキレイなんだが」とだけ言う。誰に宛てたわけでもないつぶやきを流せるからツイッターは好きだ。イーロン余計なことしないでくれ。

 

他にも語るのであれば過去に絵を描いていたことやフィルムカメラにはまりそうなことなどちょくちょくあるが、そろそろ1000文字なのでこのぐらいでやめておこうと思う。

 

結果、発信者は私にないものをもっていてすごいので、与えられる情報を楽しみたいと思う。ピース。

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